私が所属していた森研究室は、正式には「創製エレクトロニクス材料講座 機能性材料創製領域」といって、将来のエネルギー問題の解決や高度情報化社会の進展に貢献する新機能材料の開発を目的としています。新機能材料とはズバリ「結晶」です。結晶はレーザーやLEDの光源になるなど素晴らしい特性を持っており、新機能を有する新しい結晶を育成できれば、世の中の様々な問題解決に役立ちます。この研究室では、常識を覆す結晶の育成方法を発見したり、到底無理だと考えられてきた材料の結晶育成に成功しています。

実際の研究は、仮説を立て実験で検証し、その結果によって仮説を修正して再び実験を行うといった工程を繰り返さなくてはなりません。1回に何時間もかかる実験もあるし、すぐに正解に当たるとは限りません。そもそも正解がないかもしれないのです。なので、うまくいかないときは「どうせダメなんじゃないか」「自分には才能なんてないんだ」と落ち込みます。当時も、教授から指示された実験に「今度もどうせダメだろう」と真剣に取り組むことができずにいました。

ある日、私の落ち込んだ様子を見ていた先輩が、「心の相談窓口に行って根岸先生のカウンセリングを受けてみたらどうだ」とアドバイスしてくれました。実は森研究室にはユニークな方針があります。「心理学的アプローチ」です。新機能材料の研究になぜ心理学が出てくるのだろうと不思議に思うかもしれませんが、数学や理論物理のように頭だけで考えるのではない実験系の研究において結果を出すためには、メンタルの強さがとても重要で、失敗を前向きに捉えて楽しめるくらいメンタルを鍛えなければならないのです。

この柔和な笑顔の男性が根岸和政先生です。根岸先生は、児童養護施設や精神科クリニックでソーシャルワーカーや心理技術者として働きながら、児童虐待や家庭内暴力といった社会問題に携わってきた経歴があり、心理学のテクノロジーに基づいて開発された「トラウマ解消のカウンセリング」を行うことができる数少ないカウンセラーの1人です。工学部の教職員や学生を対象にした「心の相談窓口」を担当していて、「研究者の方々の創造性の活性化をメンタル面からサポートしたい」と尽力してくれています。

「トラウマ解消のカウンセリング」って何だと思いますか。一般的にトラウマは、事故や災害など生命の危機に遭遇したことによる「心理的ショック」のことを言いますが、小さい頃に「怒られた」「嘲笑された」だけでもトラウマになります。無邪気にはしゃいでいるときに叱られると、子供は全否定されたように感じ、「自分はダメな人間だ」「好きなことをしたら怒られる」と思い込んでしまうんです。そのトラウマは潜在意識の中で自分を守ろうと、リスクや挑戦を避ける方向に働き、創造性や自主性、挑戦心を抑制します。心理学のテクノロジーを使えばカウンセリングでそのトラウマが解消できるんです。

さて、カウンセリングを受けた結果、私にもトラウマがありました。何か新しいことをやろうとすると、母親の言葉が聞こえてきて、心にブレーキがかかっていたんです。私の家は自営業だったため、母親は「収入が安定した職業に就きなさい」とよく言っていました。実は私には若い頃から、自分でベンチャーを起業したいという夢があったのですが、失敗したらどうしようと心配ばかりして、一歩を踏み出す勇気を持てずにいました。すぐにネガティブに考えてしまうのは、トラウマのせいだったわけです。根岸先生のカウンセリングでこのトラウマを取り除くことができ、意欲が湧いてきました。

私の主たる研究テーマは、どうやったら欠陥や歪みのない美しい結晶を育成できるのかでした。ボスの森教授がひらめいたアイデアを実験で検証していくのですが、溶液を積極的に撹拌するとか、溶液にレーザーを照射して結晶核を発生させるとか、常識とは真逆だったり突飛な発想だったりで、最初は果たしてこれでうまくいくのかと思いましたが、カウンセリングを受けてからは「なんとかなるだろう」「失敗も次の肥やしだ」と考えるようになり、実験にも自分のアイデアを取り入れたりして楽しめるようになりました。

結晶育成が難しい材料の新しい結晶を開発する研究はやがて異分野連携のプロジェクトへと発展し、いくつかの独創的な結晶育成技術が生まれました。この新しい技術を社会に広めて役立てたいという森教授らメンバーたちの思いが、大阪大学発ベンチャー「株式会社 創晶」誕生へと結びつきました。代表取締役社長には、元々ベンチャー起業が夢で、いろいろ準備を進めていた私が就任することになりました。

企業を起ち上げるには、いくつもの高いハードルを越えなければなりませんでした。技術には自信がある。リサーチすると製薬メーカーなどからニーズのあることもわかりました。しかし我々はビジネスに関しては素人。理念は? ビジネスモデルは? 資本政策は? 倒産のリスクヘッジは? 黒字化の見通しは? 最終的な責任は誰が取るのか? クリアすべき課題が山積していました。しかし、このような場面でも、トラウマを解消して強くなったメンタルがいろいろなことを吹き飛ばし、自分の行きたい方向に進んでいくことができました。

株式会社創晶は、創立から10年を越え、当初のもくろみ通りに結晶化の受託というビジネスを展開し、結晶を必要とする様々な分野で存在感を示しています。医薬品、化学、電気、食品、電機など、取り引き企業も幅を広げています。創晶のビジネスモデルは明確です。大学発のベンチャーとしての優れた技術とノウハウを活かし、どこにもできない難しい結晶化を引き受ける。それによって社内スタッフの経験とスキルも高まり、ますます他社に真似のできない結晶化が可能になる。付加価値の高いビジネスを確立しています。