研究紹介

2020年取材

物質創成のレシピが提案できる高精度シミュレーションプログラムの開発を目指す

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複雑な課題解決のためにはシミュレーションの力が必要

近年の急速な科学技術の発展は、人間社会に多くの恩恵をもたらす一方、地球環境問題やエネルギー問題といった複雑な課題も生み出した。これまで大学に在籍する多くの研究者たちは、それぞれの研究分野の専門知識を生かしながら他の研究分野とも連携して、社会的課題や科学的課題の解決に努めてきた。さらに近年では理化学研究所のスーパーコンピュータ「富岳」をはじめとする高性能コンピュータの急速な発展により、その計算能力を生かした高度なシミュレーションを課題解決に適用する動きが強まってきている。
具体的には、化学反応機構の解明のために実験では見ることができない超高速・超微小な原子や電子の挙動の解明、広範囲・長期間に及ぶ災害被害の予測などのシミュレーションに関する研究が進んでいる。物理学系専攻の森川良忠教授は、大学院生の頃からエネルギー・環境分野に注目し、触媒などの「界面」で起こる反応を物理学の基本原理に基づいてシミュレーションするプログラムを開発し続けてきた研究者だ。

※:物質の境目のこと。固体/固体、液体/固体、気体/固体、気体/液体など。

「もともとは公害問題に関心があって、大気汚染、水質汚濁の改善に有効な触媒の研究をしたいと思い、固体の表面化学の研究室で実験の研究を始めました。物理と化学の境界領域です。ただ、実験だけだと分析結果を見ても何が起こっているか明確にわからなくて、シミュレーションを行う必要性を感じました。そこで大学院博士課程から理論系の研究グループに移ったのですが、その頃は市販のシミュレーションプログラムも殆ど無くて、シミュレーションを実行するためのプログラムづくりから始めました。そこからかれこれ30年間、物質の「界面」での原子や電子の挙動をシミュレーションできるプログラムの開発を続けてきました。」

事件の大部分は物質の界面で起こっている!?

物質の「界面」は物質変換やエネルギー変換といった事象において重要な役割を担っている。例えば有機デバイス・有機ELディスプレイでは、有機分子と金属電極の界面での電子のやりとりや反応が非常に重要だし、電気自動車動力の本命と言われる燃料電池でも、電極と電解質の界面での反応がその性能を左右する。つまり界面で何が起こっているのかを原子レベルで正確に理解できれば、そのデバイスや電池の性能向上につながる方策をたてることが可能になる。ただし、このような界面を実験的手法(分析機器)により原子レベルで見ることは非常に難しい。ナノメートルレベルで1兆分の1秒単位での観察は不可能に近い。しかし、このサイズ・時間のスケールでの事象でも、高い計算能力を持つスーパーコンピュータを用いれば、シミュレーションによる可視化が可能だという。実際、森川教授は環境・エネルギー技術として非常に注目を集める以下の反応で、触媒表面での原子の挙動に加え、電子の挙動までシミュレーションで可視化することに成功した。

(1) COの水素化反応(地球温暖化ガスであるCOをメタノールに変換)
(2) 水・白金界面における水素発生反応(水から水素をつくる)
(3) 白金触媒によるSiCのエッチング(パワーデバイス材料であるSiCの反応過程)

触媒界面のシミュレーション結果(1)〜(3)

研究室の高性能コンピュータ。毎年10〜20台ずつ更新される

「これらのシミュレーションでは原子の座標データはもちろん、電子の挙動まで物理学の基本法則に基づいた計算シミュレーションで解いて可視化しています。ここまでやるには非常に高性能かつ大きなコンピュータが必要で、我々の研究室では高性能コンピュータ約100台を維持しています。それに加えて、学外の共同利用可能なスーパーコンピュータも利用しながらシミュレーションを進めており、将来的には理化学研究所のスーパーコンピュータ「富岳」も使う予定です。このデータは空間的には約10億倍に拡大し、時間的には1012倍=1兆倍遅いスローモーションで再現しており、「超高性能時空間顕微鏡」で化学反応過程を観察したといえます。触媒の性能の良さの原因は何か、触媒の金属種を変えると性能はどうなるか、入力数値を変えることでシミュレーションできるプログラムを開発しています。」

将来的には物質創成のレシピを提案できるプログラムを

ここまでは物質界面でのシミュレーションの有効性を見てきたが、このようなシミュレーションプログラムはどうのようなルールに則って組まれているのだろうか?ここ数十年で著しく計算能力が向上してきたコンピュータではあるが、一定のルール内でのパターン情報処理は得意だが、汎用A I(未だ実現していない)のように自ら考えて仮説と実証を繰り返すことはできないはずだ。よく引き合いに出される「チェス」「将棋」「囲碁」などの世界では、コンピュータが人間の能力を超えたと言われているが、これはあくまで一定のルールが決まったゲームでの話だ。

「我々の研究分野である物質科学では、物理学の第一原理である「古典力学」「電磁気学」「熱•統計力学」「量子力学」が基本ルールとなります。これらのルールはすでに確立されており、近い将来このルール内では、チェスなどの世界と同様にコンピュータが人間の能力を超えると考えられます。そういう意味でも、コンピュータを物質科学に活用すべきだと我々は考えています。そして確立済みのルールに則っていますので、非常に信頼性の高いシミュレーションが可能です。これらのルールの中でも、私は量子力学のシュレディンガー方程式を物質の界面に適用して量子シミュレーションの研究をしてきましたが、そのプログラミングには10万行以上を要しました。それをスーパーコンピュータで走らせてシミュレーションしているのですが、今でもチューニングを続けて発展させ続けています」
森川教授のシミュレーション結果は共同研究で連携する実験グループが実証することになる。シミュレーション結果を実験で実証し、実験結果をシミュレーションで解明する、そういうことを繰り返すことで、シミュレーション技術が向上していく。
「将来的には、どの物質とどの物質を混ぜるとどういう性質の物質ができるのかが、すぐにわかるようなレシミュレーションを目指したい。必要な数値を入力すれば、物質創成のレシピがでてくるようなプログラムをつくることができれば、実証実験は最後に1回すればいいわけですから。こういうところまで到達したいですね」

あらゆる物質に適用できる多階層なシミュレーション

日本政府が提唱しているSociety 5.0ではフィジカル空間(実社会)の課題をサイバー空間(仮想社会)で解析・シミュレーションし、それをフィジカルワールドに自動的に戻すということが繰り返される。このような社会を実現するためには、社会の至るところで多様な課題に対するシミュレーションが行われ、正確かつ高速なシミュレーションができるかどうかで国力に差がつくはずだ。そして、ミクロで短時間な特定分野のシミュレーションと産業全体の長期間の動向を俯瞰するようなマクロなシミュレーションの両方が必要となり、この両者をうまく連携させていく仕組みづくりも不可欠だ。
「我々のプログラムは物理学の基本原理に基づいていますのであらゆる物質に適用できます。今はエネルギーや環境問題が重要ですので、その分野の物質デザイン、物質科学にシミュレーションを使って取り組んでいますが、それは生体や物質合成といった様々な領域に応用可能です。原子レベルのミクロなシミュレーションを実際のデバイススケールのマクロな世界に繋ぐような技術も重要です。量子シミュレーションをもっと統計力学や熱力学、あるいは機械学習と組み合わせて、長時間に大きなスケールではどう変化するかということも意識して。多階層なシミュレーションにも取り組んでいます」

研究室のホワイトボード

学生のデスクでのディスカッション。フラッと気軽に学生の席を訪れるのが森川先生のスタイル。

富岳の成果創出加速プログラムにも参画

2021年度共用開始予定(2020年10月取材時点では試用運用中)の理化学研究所の「富岳」は「使い易くて高性能」なスーパーコンピュータとして、シミュレーション ・ビッグデータ解析・A I開発などにより、さまざまな社会的課題や科学的課題の解決への貢献が期待されている。「富岳」による成果を早期に創出することを目的として、国によりいくつかの課題が選定されており、森川教授も燃料電池のシミュレーションで参画し、電極へのプラチナ使用量の削減や代替物質の探索を「富岳」で進める予定だ。

「富岳」課題創出プログラム「次世代二次電池・燃料電池開発によるET革命に向けた計算・データ材料学研究」

「富岳」成果創出加速プログラム:https://www.nims.go.jp/fugaku-denchi/index.html

「計算機が変わると我々のプログラムもそのまま速くは動いてくれません。最先端のプログラムになると特に並列効率が重要でネットワークの条件が変わってきますし、CPUのコードも変わってきて、それに合わせてプログラムをチューニングしていかないと速く走らないのです。なので、2020年の4・5月からはそのチューニングを進めているところです」
日々向上するコンピュータの性能に伴いシミュレーション技術が進化し、進化したシミュレーション技術でさらにコンピュータ性能が向上する。こんな好循環により、シミュレーションと現実世界が近づきつつある。半導体デバイスや電池材料として必要な性能を入力するだけで材料物質創成の正確なレシピが出力される、そんな社会の輪郭が徐々に見えてきたような気がする。

森川 良忠 教授

応用自然科学科(物理工学科目)

応用自然科学科(物理工学科目)

計算物理領域(森川研究室)