応用自然科学科 バイオテクノロジー学科目 生物化学工学領域
大政 健史 教授
抗体医薬の生産に不可欠なバイオテクノロジー
2020年からの新型コロナウイルス感染症拡大に伴い、その治療薬として抗体医薬※1やワクチンなどバイオ医薬※2の開発・生産への社会的関心が高まっている。新薬と聞くと薬学部や医学部のイメージが強いが、広く社会に普及させるにはバイオテクロジーによる生産プロセスの構築が不可欠で、その研究は工学部の領域だ。125年の歴史を誇るバイオテクノロジー学科目の大政健史教授は、動物細胞を駆使する生物化学工学の先駆者としてこの領域を牽引する研究者だ。大政教授が取り組むバイオ医薬をはじめとするさまざまなものを生き物で生産する研究とはどのようなものなのだろうか?
生き物を使ったものづくりは、古くから行われており、酒類や味噌などの発酵食品やペニシリンなどの抗生物質の生産などがこれにあたる。また癌治療薬や新型コロナウイルス感染症の治療薬であるバイオ医薬も分子量が非常に大きいため化学合成でつくることは不可能で、やはり動物の細胞の力を借りて生産する必要がある。そして細胞を使った新薬生産技術の確立・向上には、細胞自体の研究と生物化学工学の応用が必要となる。
細胞を知り、改良して、有用なものをつくり出す
大政教授が持っているのは、細胞内での反応をまとめた図式。小さな細胞一つひとつの中で、膨大な化学反応が起きていることがわかる。この中のごく一部の反応を取り出して化学で再現することはできても、これだけのことを同時に処理できるのは生物だけだ。大政教授は、このような高度で複雑な働きをしている細胞の設計図を書き換えることで、思い通りに細胞を操って有用なものをつくる研究を進めている。
今研究に使われているのは、主にチャイニーズハムスターの卵巣由来の細胞であるCHO細胞だ。普通、細胞の寿命は有限なので人工的な環境で培養しても何十回か分裂したら死んでしまうのだが、CHO細胞は無限に増えてくれる。ただし増殖する過程で遺伝子の設計図のいろいろな場所が変化するため、一つひとつの細胞が個性を持ったように分布するのだが、その分布をどう制御したら欲しいものをつくってくれるか?どのように遺伝子の設計図を入れ込んだらいいのか?そんな視点で大政教授は研究を進めてきた。
「1992年頃に私がCHO細胞の研究を始めたときにこの細胞でバイオ医薬品を作っていたのは、ほんの1例か2例でした。しかし、2018年には欧米で上市されているバイオ医薬品の45%がこのCHO細胞で作られるようになりました。そして今では、CHO 細胞を使う研究には多くの企業が自然と集まるまでになってきました」
ビジネスジェットのようなバイオ医薬の生産に必要なこと
そう語る大政教授は自身の研究室でCHO細胞の解明や培養に焦点を絞った研究を進めるとともに、生物化学工学の知見に基づいたバイオ医薬の生産を視野に入れた取り組みにも力を入れている。
「医薬品のシーズを開発するだけでは生産はできません。シーズを市場に入れるには、生産系をどう組むのか?どうやって大きなスケールでものをつくるか?どのタイミングで品質を分析するか?そういう高度な技術を組み合わせる必要があります」
化学合成ができる低分子医薬は部品点数では自転車に例えられるが、抗体タンパク質が主成分のバイオ医薬はビジネスジェットに例えられる。それほど複雑なものをつくるには、様々な分野の多くの企業が一体とならないと研究が前に進まない。大政教授は自身の研究室で細胞の培養に焦点を絞った研究を進めるとともに、製薬、化学、電機など幅広い分野の30社以上の企業等と一緒にバイオ医薬の生産に関する共同研究コンソーシアム※3を組み、神戸に模擬工場をつくって生産実験にも取り組んでいる。
「「薬は一点ものでは意味がない」のです。我々が目指すのは有用な医薬品をたくさんの人々に届けること。小さなバイオリアクターでうまく作れても、全くそのままの形状・素材・比率で装置を大きくしても、結果は変わってきてしまいます。スケールを大きくしたときに、どうやって同じ結果に揃えることができるかが非常に重要なのです。こういう研究は薬学部や医学部ではできません。工学部の生物化学工学の領域です」
産業化に向けた基盤的な取り組みが醍醐味!
大政教授は工学分野の研究者として、産業に実装するための基盤的な取り組みに軸足を置いている。ひとつの例題を解くだけでなく、その背景にある基盤的原理を明らかにして統括的な仕組を見出そうとしている。
工学部ギャラリー(これまでの研究成果)
「細胞自体の仕組みを解明してその設計図を書き換えてものをつくるという部分に興味はありますし、そこを深く研究をしているのですが、いかに一般化、体系化できるかが重要。これが工学部での研究の醍醐味だと感じています。我々のやっていることを理解してそのまま使えば産業応用ができる、そういうところまで研究を展開して社会に繋げていきたいと思っています。こういう考え方は我々の学科で、125年間に渡り脈々と受け継がれてきた遺伝子のようなものなのです」。
阪大工学部は日本のバイオテクノロジーの中心的存在
工学部ギャラリー(工学部の歴史年表)
阪大工学部応用自然科学科バイオテクノロジー学科目のルーツは1896年の官立大阪工業学校創設時の醸造科設置にまで遡る。「日本のウイスキーの父」と呼ばれる竹鶴政孝氏※4も、この官立大阪工業学校の流れを受け継いだ醸造学の原理および各種醸造に関する技術を授ける目的の大阪高等工業学校醸造科の卒業生である。醸造科はその後、大阪帝国大学工学部醸造学科、大阪帝国大学(大阪大学)工学部醱酵工学科、大阪大学工学部応用生物工学科、応用自然科学科応用生物工学科目からバイオテクノロジー学科目と発展し、日本の醸造・発酵・生物工学の産業分野をリードし、産業バイオテクノロジーの発展に貢献した多くの卒業生を輩出してきた。
ところで、日本のバイオテクノロジー分野を代表する公益社団法人 日本生物工学会は2022年に100周年を迎えるが、その事務局が大阪大学工学部の中に置かれていることをご存知だろうか?全国規模で活動する学会の事務局のほとんどが東京に置かれているが、生物工学に関しては、全国規模の学会の事務局が阪大工学部内に設置され、世界に向けて情報発信を行っている。
無限の可能性がある阪大工学部
大政教授の研究室にはヨーロッパ・アメリカ・アフリカ・アジアなど、常時7-9カ国の留学生が在籍し、グローバルな視点で世界最先端の研究が進められており、アメリカの製薬会社との共同研究も継続中だ。そんな環境なので、英語が苦手な学生も、配属後には英語力が自然と向上していくという。
また産業界ではバイオテクノロジー関連の高度人材へのニーズは非常に高い状況が続いており、大政研究室の修了生たちも、バイオテクノロジー産業の各方面で活躍している。
「125年の伝統がある阪大工学部には無限の可能性があると私は信じています。様々な分野で活躍されている多くの先生方・先輩方がいらっしゃいますので。そして科学を通じて人類社会に役立つということが私たちの精神的ルーツですので、そういう分野を志す方は大歓迎です。
受験生の方には、推薦入試も一般入試も両方を視野に入れて合格の可能性を広げることをお薦めしたいです。
そして入学後はぜひ博士課程を目指して欲しい。研究者としてグローバルに活躍しようと思うと、博士号は自立した社会人としてグローバルに活躍するためのパスポートのようなものです。
ぜひ、そこを目指して頑張っていただきたいですね。」
※1 抗体医薬 : 生体内で病原体などの非自己物質やがん細胞などの異常な細胞を認識して殺滅することにより、生体を感染、疾患から保護する役目を有する免疫系の主役である「抗体」を主成分とした医薬品
※2 バイオ医薬 : 遺伝子組換え技術や細胞培養技術等を応用して、微生物や細胞が持つタンパク質(ホルモン、酵素、抗体等)等を作る力を利用して製造される医薬品。世界の医薬品売上高ランキング上位10位までの約70%がバイオ医薬(特許庁「平成26年度 特許出願技術動向調査報告書」より)
※3 バイオ医薬の生産に関する共同研究コンソーシアム : 2013年に次世代バイオ医薬品製造技術研究組合が設立され、2021年12月末時点での組合員は36企業、5大学(大阪大学を含む)、2国研、4団体
※4 竹鶴政孝氏 : 1916年大阪高等工業学校醸造科を卒業。スコットランド留学の後、壽屋(現在のサントリー)で山崎蒸溜所建設に尽力し、その後ニッカウヰスキーを創業した。