「信号処理」は身の回りのデータから意味を引き出す技術
情報化社会に暮らす我々は、スマートフォン、防犯カメラ、音声認識家電、ゲーム機といった多くの電子機器に囲まれている。これらの機器がさまざまなソースから取り込んだデータ(信号)をコンピュータで処理できる形式に変換して意味を引き出す技術が信号処理だ。今後、自動運転システム、脳/コンピュータインターフェイス、音声翻訳ソフトなどが汎用技術として普及していくには、信号処理技術のさらなる進化が不可欠だ。電子情報工学科の田中雄一教授は、グラフ信号処理という新たな概念の研究を進めることにより、将来の我々の暮らしを支える信号処理技術の発展に貢献しようとしている。
サイエンスと工学をつなぐ役割
例えばスマートフォンで写真を撮影したとき、機器の中では、我々がいる世界の光の強さをデータ(信号)として取り込んでコンピュータで扱える形式にして保存している。実際にはデータ計測時にノイズが入ったり、素子の動作不良で一部のデータが欠損してしまったりする。このような汚いデータを信号処理の技術によってうまく綺麗にすることで、次の段階であるAIによる処理性能が大幅に向上する。スマートフォンで撮影した写真や動画をセピアカラーに変換したり背景をぼかしたりする画像/映像処理も信号処理の一種だ。
信号処理技術を使えば、画像、音声、電波などのあらゆるデータを処理することができるため、その応用範囲は無限だ。田中教授曰く「信号処理という分野は、数学や物理などの科学と工学の中間に位置していて、それらを繋いでいるイメージです。数学とか物理の専門用語を、人の役に立つような言葉に翻訳してあげる感じかな」
データサイズの圧縮が信号処理の長年のテーマ
近年の信号処理におけるメインテーマはデータの圧縮だ。例えば、スマートフォンで撮影した動画をインターネット回線で送受信しようとした場合、そのままのデータだと容量が大きすぎて不具合が起きるため、うまくデータを間引いて圧縮する必要がある。また、動画配信サイトでは一定の回線を通じて何千万人もが同時に長編映画を視聴することもあるため、それなりの画質を安定的に提供するにはさらなるデータの圧縮技術が求められている。
他にも自動車の自動運転の場合、膨大な画像データや距離データをリアルタイムで処理する必要があるため、安全性に影響がない範囲内で上手くデータサイズを減らすことが信号処理の課題だ。
「我々が暮らす物理空間には無限のデータがあります。しかし、それらを全て正確に計測できるほどに高精度のセンサはつくることができません。なので、取得したデータをコンピュータで扱うときには、信号処理で間引いたデータを使う必要があります。
ちなみに、このコンピュータで扱うデータが物理空間のデータに忠実であることをサンプリング定理として証明したのが、米国の数学者で「情報理論の父」と呼ばれるクロード・シャノンです。1940年代の成果ですが、サンプリング定理を満たしている限り、我々がコンピュータで処理するデジタルデータは、物理空間のアナログデータと一致することを理論的に保証できるのです。学部生の教科書にも登場します」
規則性のないぐちゃぐちゃなデータを解析するのがグラフ信号処理
田中教授が取り組んでいるグラフ信号処理とはどのような信号処理なのだろうか?従来の信号処理は、規則正しく並んでいるデータが対象だった。画像処理で扱うデータは規則正しく整列した点の集合で表せるし、音声処理の場合もマイクで取得した音声がコンピュータに入るときは連続の波を均等間隔で測ったデータだった。しかし、15年ぐらい前になって、実は世の中には、規則性を持たない複雑な構造を持つ偏在したデータを処理しなければならない状況がたくさんあることがわかってきた。
例えば、自動車の位置や周辺の障害物の情報を瞬時に取得する必要がある自動運転に使われるLIDARでは、取得されるデータは光が当たった場所の座標のため、3次元空間的に規則正しく整列しているわけではない。
渋滞位置の予測のための交通網データも同様で、一定地域内の交差点にある車の数を解析しようとしても、交差点が規則正しく並んでいるわけでもないし、道路の太さや間隔も均等ではない。
また、ソーシャルネットワークでの情報の広がり方を予測しようとしたときに、何億人もフォロワーがいる人と、数百人しかフォロワーがいない人が同じことを言っても、話の広がり方は全然違う。
このように規則性のないデータを解析するために、信号処理の基礎に立ちながら、従来の信号処理の枠組みを拡げた分野がグラフ信号処理だ。
複雑な構造を持つ大規模データの偏在
「グラフとはもともと頂点と辺からなるデータ構造を指す数学用語ですが、簡単に言うとネットワーク、つまりモノや人の繋がり方を表しています。ネットワークの上のデータを解析しようというのがグラフ信号処理という研究分野です。例えば、自動運転のカメラからの距離を示す点群データ、交差点の通行量データ、ソーシャルネットワーク上の投稿などがグラフ信号です。グラフ信号処理の応用範囲は広く、効率の良いスマートグリッドの設計、安全な水道ネットワークの設計、IoTデータの解析などにも有効です。どんどん応用先も広がっている感じですね」
グラフのイメージ(頂点と辺の集合)
紙と鉛筆があればできるのが信号処理研究のいいところ
田中教授の研究は、今まで使ってきた信号処理の数式を変えて、それが正しいかどうかをコンピュータシュミレーションで確認していくというスタイルだ。研究室にパソコンはあるが、実験装置のようなものはほとんど見当たらない。
「私は大学の学部生だったときに授業で実験をやってみたら、装置の調整がすごく大変でイヤになった。なので4年の研究室配属時には、数式さえバシッと出せれば、実験をしなくて良さそうな信号処理の研究室を選びました(笑)。やりたくないことが多い研究者がいてもいいかなと思っています。
私にとって信号処理の理論研究はすごく面白くて趣味みたいなものなのですが、一方で実際の社会課題にも向き合わないといけない。例えば現在の世界情勢を考えると、電気代も高いし、戦争も起きてるし、半導体も不足していて大変な状況。我々の技術でデータを効率的に圧縮したり解析の仕方を変えることで、うまく資源の消費を抑えられないかなどを考えています」
このような実際の社会課題に向き合うために田中教授はいろいろな企業の研究者と積極的につながっている。独自の課題と豊富なデータを保有する企業からデータを提供してもらい、田中教授が解析技術を提供するという連携スタイルだ。信号処理は応用先が広いため、さまざまな分野の企業との連携による画像処理や通信などに関する共同研究が進行中だ。
できないことがいっぱいあっても、ピークを1本立てればなんとかなる!!
最後に田中教授からの高校生や受験生へのメッセージを受け取った。
「高校から大学に入って一番変わるのが、自由に授業を選択できるところ。興味のない授業は取らなくていいので、高校までの勉強よりはだいぶ楽になります。どうしても苦手な科目を選択しないといけなくても、友達の力を借りたり、みんなで協力したらなんとかなる。
これが4年で研究室に入って研究を始めると、さらにやりたくないことをやらなくて済むようになります。大事なのは、できないことがあってもいいから、ここだけはできるというピークを1本自分で立てること。ピークが高ければ高いほど、研究では評価されます。できないことがたくさんあっても、できることが1個あればなんとかなります。
今、受験勉強でしんどい思いをしている人たちも、大学に入って研究室に入るとやらなくていいことが増えて、どんどん楽になっていきますから、なんとか乗り切って欲しいです」